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プレソのトレモロのこと

f0085167_19464648.jpg今回のプレソのひとつの試みは、「短いトレモロ」というふうに言ってもいいかもしれません。「短い」という表現はかなりあいまいですが、「適度な」と置き換えてもいいかもしれません。トレモロを終えたあとの処理にこだわる。トレモロで最後の「ダウン」または「アップ」でもどちらでもいいのですが、その放った最後の響きがどう飛んでいくか。ぼくはゴルフはやりませんが、フォームがきっちりしていると玉は遠くに飛んでいく。あれも打った後どれくらい飛ぶかということが問題なのでしょう。ピッキングのストロークにも同じことが言えるのだと思います。トレモロをやめて、その最後の音がどのように響くか?そういった技術を獲得して、それをさまざまな響きで制御できたら、おそらく音そのものが楽しくなるのではというふうに考えます。最近の練習でずっとこだわり続けていることのひとつです。単純に、機械的にほんとうに音符のど真ん中で切るというものでもなく、そこには自然な分離というのでしょうか?この恣意的ではない、自然な流れというのがポイントだと思います。花びらや葉っぱが散るときのように、さらっとしているのかもしれません。意図的ではあるのだけど、それはむしろ自然の摂理のようにすら思えるくらい、さりげないものでなければならないでしょう。その、ふっとした感じでみんなで一斉に(ほぼ一斉に)トレモロの振幅が放たれて、単音の音が豊かに響き渡ったときの至福感っていうんでしょうか、それこそがプレソがめざす、ひとつの響きの世界のように思います。このあいだ練習した「ホルベルグ」の最後で4分音符が連なっていくところなどはその典型的なところだと思います。おそらく、トレモロをする長さというのは、それぞれの4分音符の半分くらいでいい。ただ、問題はそのトレモロを弾き終えた瞬間のところです。4分音符ですから、拍一杯には響いていたい。しかもトレモロをしているときの響きとまったく損傷ない音量と響きで満たさなければならないんです。そんなの無理だよう?そうですよね、物理的には不可能かもしれません。ただ、そういう思いのようなものでこだわってみると、何かが変わるはずです。その何かを共有することこそ、アンサンブルのひとつの楽しみなのではないでしょうか。合奏の醍醐味は何かを共有することであって、お互いの音を競うことではありません。その瞬間の音のイメージ、音の色あいなど、まさに音にこめる思いのようなものでしょうね。ただ弾いてテンポがあったらそれで終わりではない。むしろそこから始まるというものでしょう。
もうひとつは、トレモロを弾くときの振幅の問題です。昔は、いわゆる「中膨らみ」の禁止条例が敷かれていました。これはご法度だったのです。ただし、ぼくたちがめざすひとつの指針であるところの「ピリオドアプローチ」という視座で、このことを捉えなおしてきると、意外に「適度な中膨らみ」というのも「あり」なのではというふうにも思えてくるのです。なんでもかんでも中膨らみということではなく、「豊かな中膨らみ」というのでしょうか、つまり、トレモロにも助走が必要でしょう。いきなり飛ばすということが要求されることもあります。「くっきりとした音の立ち上がり」が要求されるような場合です。ただ、普通の歌だったら、振幅が次第に高まる(あるいは速まる)というのは、自然であればむしろ心地よいのではないでしょうか。弧楽器のバイオリンを聴くと、しなやかに弧を描くように「中膨らみ」しています。あれも、弦をこすり始めてから、ふわっと音が立ち上がるのに時間を要するからに違いありません。振幅の揺らぎということもひとつのテーマだと思います。
さて、トレモロの回転数についてですが、ぼくは基本的には荒いほうがいいと考えています。まるで、ひとつひとつのダウンとアップの音が識別できるくらいの早さでいいと考えています。そもそも、トレモロとは音を持続するための技術ですから、それぞれのダウンとアップの音の音色が早いストロークによって蔑ろにさえれてしまっては本末転倒、言語道断であります。ひとつひとつのダウンとアップにはどのような力とタイミングと音の質感で鳴らすのか、そう考えるとそれほど速く弾くわけにはいかないでしょう。そういうふうに弾けば、自ずから単音に引き継ぐことがむしろ容易に実現できることでしょう。つまり、トレモロから単音に放つときというのは、トレモロの最後のアップ、あるいは稀にはダウンのときもあるでしょう、その音がゴルフのスイングになるわけですから、そこが肝心です。そうなると、どこがトレモロの終わりで、その最後のストロークをどう対処するかということで、その次の単音の音の質感、色合い、響き方、響く距離などが決まるということに違いないからです。そういう意味ではトレモロの数にこだわるというアプローチも一理あるといえましょう。ただ、ここで要注意なことは、全員で数を決めるということではありません。それは、まったくのナンセンスです。それは楽器の響きがひとつひとつ違うからです。これはマンドリンの宿命ですが、魅力にもなっています。ひとつひとつ違うということですね。それだからこそ、この合奏はここにしかないサウンドをつくるということにも繋がっているということです。最大限に楽器の音を鳴らす。これが基本です。そうやって引き続けると、じつは楽器も鳴ってくるはずです。ぼくはずっとそう信じて楽器を鳴らしてきました。弦を振幅させて、ある波長を捉えたとき、その音が最大限に響く瞬間というのは、その楽器を弾いてみないとわからないことですが、その波長と振幅があっていないと、不幸なことが起こります。そういう弾き方を続けていると、楽器は死んでしまうでしょう。名人が鳴らすと楽器が鳴るようになるという体験をぼくも目の当たりにしたことがありますが、確かに「楽器を鳴らすように弾く」ということはとても重要なところだと思います。
マンドリンのあらゆる合奏を聴くたびにがっかりすることは、フレーズの終わりの処理がいかにもおそおまつだということです。なんだかぶっきらぼうで、雑ですね。それに呼吸がない。フレーズの最後は呼び拍でここで息を吸う。息をこらす。次のフレーズの長さによってその深さも変わってくることでしょう。そういう息づかいがないという演奏があまりに多い、マンドリンはよく走るといわれますが、とくに歌と一緒にやると歴然としてしまいますが、大抵歌手は窒息してしまうか、卒倒するかのどちらかです。トレモロを途中でやめることによって、むしろピッキングで弾いているかのような流れの方を重視していく、さらにには単音とトレモロが同次元で扱える(切り替えではなく)ということになるのではと、ここからの新たな可能性が広がるのではと期待を寄せています!トレモロを敷き詰めないことで呼吸するゆとりも生まれてきます。この敷き詰めないトレモロは、音楽そのものをやるために、重要な鍵を握っているような気がしてきます。
こういう視点で、もう一度、全ての作品を捉えなおしてみてください。そして、その長さにこだわっていきましょう。最初に「短い」というふうに示しましたが、「適度な」長さを探っていきましょう。そういう議論をしたいと思います。

ギターの方には、次回「横向きの和音」というテーマで、わたしたちの「ピリオド的アプローチ」について考察してみたいと思います。もちろん、ギターのみなさんは「専門家」ですから、こちらは「イメージ」しかお伝えできませんが、できればイメージを共有して、それをどう実現するか、その最適性を追及していきたいと思います。

「ホルベルグ」はとてもいい材料ですね。しかし、初回にしては(いやその前に一回やりましたが、あのときは楽譜が不十分でした。)プレソの音がしっかり鳴っていて、とてもうれしくなりました。もう、ぼくたちは着実に何かを掴みつつある、そう実感しました。ここにしかない音が芽生え始めています。あとは、もっともっと話し合って、掘り下げていきましょう!

ゆう
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by pleso | 2002-02-14 19:44 | ◇Pleso yuyu Life
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